会津中街道 (アイズナカカイドウ)
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住所 |
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会津若松より小塩・弥五島・松川・野際・大峠を越えて下野に入り、三斗小屋・板室・百村・高林・上石上・山田・川崎・氏家などを経て、鬼怒川の阿久津河岸に至る街道。
会津西街道の脇街道のひとつ。下野では「会津街道」・「会津中街道」・「会津東道」などの呼称がある。会津地方では「南山松川通り」といい、俗に松川新道と呼んだ。
この街道は大峠や那須岳の高所を越える難点はあるが、江戸へ白河通りよりも44km近く、阿久津河岸へ28kmも近かった。
1693(天和3)年大地震のため鬼怒川支流の男鹿川が堰き止められ、五十里湖が出現したので交通路が一部遮断され、物資の輸送に大きな障害となる。
代わる廻米路として1689(元禄8)年9月より開削、同年10月下旬に完成する。
廻米だけでなく、1690年4月には会津藩主3代正容が、同年5月には越後村松藩主堀右京亮が参勤交代のため通行。
また那須北部地方や会津地方の白湯山参りの者も多数往来するが、那須山越えは険しい高山路で積雪もひどかった。
1723(享保8)年に大雨で五十里湖が決壊し、会津西街道の障害が除去されると、旧道が多く使用されるようになり、会津中街道は廃道となる。
しかし横道として荷を送ったり、白湯山信仰者の往来は続いたが、明治に入り1904(明治37)年の磐越西線の開通により、荷の輸送はほとんど無くなった。