座禅院 (ザゼンイン)
詳細
住所 | 栃木県日光市 |
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日光山衆徒36坊の一。24世弁覚以来座主は鎌倉の大御堂別当を兼ねて同地に住したため、座禅院が本院光明院の留守を預ったが、37世慈玄が光明院を退いてからは、座主職が中絶し、以後、座禅院が権別当として、一山の寺務を総括することとなった。
これが1420(応永27)年権別当昌瑜法印のとき。以後、昌勝・昌繾・昌潤・昌継・昌宣・昌源・昌顕・沙弥丸・若王丸・昌膳・昌歆・昌広・昌淳・昌尊にいたる15代190余年間を座禅院権別当時代という。
この間、日光三社権現の信仰を背景とする日光山の寺領支配も権別当を頂点として構造化されてきた。43世昌宣の1453(宝徳5)年から、権別当が「惣政所」と称する慣例となったのも、これを語るものである。
1509(永正6)年連歌師宗長が来山して、紀行『東路のつと』に「院々僧坊およそ五百坊にも余りぬらん」・「坂本より京鎌倉の町有りて市の如し」と述べて、山内僧坊と門前市の形成を伝えているが、その市は日光中市とよばれ、1576(天正6)年銘の文書によると、小田原の宇野籐右衛門尉という商人が、権別当から「外郎之丸薬」の独占販売を認可されており、かなり広域の交易圏が成立していたことを物語っている。
歴代の権別当の出自が壬生・小山・宇都宮・鹿沼など下野の有力豪族であったことは、日光山を著しく強化させた反面、裏目に出る結果をもたらした。
1509(天正18)年日光山の住侶は、壬生義雄の軍勢の一翼を担い、小田原の北条氏に参陣して秀吉の怒りにふれ、古来の寺領をことごとく没収され、わずかに門前屋敷と足尾郷のみを残すという悲運を招いたのである。
1613(慶長18)年権別当昌尊は一山と異議を生じて退山し、同年天海が入山の際これを宿院としたが、本院光明院を再興するに及んで座禅院は廃絶した。
昌継・昌宣・昌源・昌顕・昌淳の墓は浄光寺にある。