足利忠綱 (アシカガタダツナ)
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1163~?(長寛6~?)年。平安末期から鎌倉初期の武将。藤姓足利氏の一族、足利俊綱の子。
1180(治承4)年の以仁王・源頼政の挙兵に対し、平清盛側につき馬筏を組んで宇治攻めの先陣をなし、合戦を勝利に導いた。
この働きに対し清盛より上野国16郡の大介職と新田庄の領主職を与えられたが、わずか数時間で撤回された。
この跡忠綱は父俊綱とともに常陸南部の志田先生義広と結んで反頼朝戦線を結成。
しかし志田義広の死亡以降は衰え、上野国山上郷に潜伏したり郎従桐生六郎のもとにいたりしたが、その後山陰道を経て西海へ逃亡していったという。
『吾妻鏡』によると忠綱は「末代無双の勇士」であり、三つのことが人並み以上であったという。
すなわち、百人力と、十里に届く声と、一寸(約3cm)に及ぶ歯の持ち主であった。