中村勧農衛 (ナカムラカノエ)
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詳細
住所 | |
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照会先 | 能持院 |
照会先電話番号 | 0285-63-2625 |
1802~1858(享和2~安政5)年芳賀郡中村(現真岡市)の人。黒川元順と称した。
20歳で江戸に出て医学を学び茂木藩医中村周圭の養子となり細川侯侍医就任。
藩の窮乏を見かね、藩主興徳・嗣子興建を説き、1834(天保5)年から二宮尊徳の教えに当る。藩命により還俗し勧農衛称し、任法取扱主任となる。藩の分度を計り支出を切り詰め借金の返済に勧め、荒地を起返し、1851(嘉永4)年間引を防ぐため『さとし草』を著わし領内に配布し農業人口の増加に努めようとした。茂木領内の各村に小田原・桜町仕法に従事した人足を投入し自らも「茂木勧農衛畑の地しばりなけりやよい」といわれる程丹念に回村をくり返し用水・堰・切通しの建設と荒地の起返しを指導した。1836(天保7)年の大飢饉の際には御園町弥勤院に御救い小屋を設ける等周倒な用意をして、餓死者を出さなかった。
【さとし草】間引(小児圧殺)の風習を戒めた本。人の命の尊さを説き、これを圧殺することは鳥獣にもおとる行為であるとし、余暇をみて繩をない糸を織りこれを集めて助け合い子を育てるなら昔の人口に戻ると述べている。墓所は塩田の能持院