二宮尊徳 (ニノミヤソントク)

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詳細

住所
照会先 二宮尊徳資料館 小田原市尊徳記念館・二宮尊徳生家
照会先電話番号 0285-75-7155 0465-36-2381
ホームページURL http://www.city.moka.tochigi.jp/sontoku/ http://www.city.odawara.kanagawa.jp/public-i/facilities/sontoku/

1787~1856(天明7~安政3)年。「報徳思想」を唱えて「報徳仕法」と呼ばれる農村復興政策を指導した。小田原市栢山の人。通称金次郎、尊徳と称す。もともと2町3反余の豊かな地主であったが、酒勾川の洪水で田畑は荒廃し、少年期に父母と死に別れる不幸にあった。その不幸の中から天才的な創意と努力により30歳のときには3町8反の大地主となり生家を再興した。その後小田原藩の家老服部家の財政を再建し、小田原藩に用いられ、1821(文政4)年荒廃した桜町(旧二宮町周辺)の再興を命ぜられ、その後半生は下野で過すことになる。
【桜町仕法】(36歳~50歳)桜町3村は400戸が150戸に激減したが、1005俵を分度とし10年後には、1894俵を増収し分度外8500俵の成果を上げた。
【茂木藩仕法】(49歳)細川興徳1万6千石は、13万両の大借に、年貢は三分の一に減った。6千石を分度とし、4年後には分度外に156俵を増収した。
【烏山藩仕法】(50歳)天保7年のききんに、米稗1648俵を送られ延11万人を救済し、3万両の負債の財政救済に9300俵を分度とし、224haを開発して、分度外1500俵を増収した。日光仕法雛形の作成(58歳)日光神領開拓の諮問に応じ、2年3月不眠不休で、報徳仕法の各様式を集大成し、64巻を献納した。
【日光神領仕法】(67歳~70歳)閣老水野越前守の内命による日光仕法雛形作成後、幕吏に登用され、願望久しかったが嘉永6年、日光仕法の下命があり、病気ながら7、8月7千村を廻村し、実状に即して開始した。今市に報徳役所を新設し、1万6千両を投じ、30年計画中明治維新まで15年間に、開発53%の成果を上げた。安政3年70歳で没し、如来寺に葬った。
尊徳の宇宙観・人生観は、47歳の時の「三方加徳金毛録」を中心に大円鏡、空仁二名論、百種輪廻鏡、譲奪弁等五十数種の記録に盛られ、その要諦は、報徳訓、貧富訓、三方独楽集に集約されている。天地間万象は、天理自然の「天道」であり、人類の作為による文化創造が「人道」である。人間の行為を天道に任せれば怠惰に流れ、人道に則し努力すれば貧者も富む。万物の徳(特質)を生かすことが、天地の恩徳に報いる報徳であり、至誠を以て貫き、勤労して分度を確立し、余財を推譲することが報徳の生活である。これによって天地人三方が一円融合し、興国安民の報徳の真髄が具現され、幸福、平和の理想が実現される。
尊徳の仕法は他の農村の規範となった。没後の1891(明治24)年11月16日に従四位が追贈されている。
1843(天保14)年に尊徳を慕い、彼の思想を実践する目的で、小田原に報徳社が結成されると、各地でも続々と報徳社が結成されていった。

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