古河公方 (コガクボウ)
詳細
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足利持氏の子成氏は、1449(宝徳元)年に鎌倉公方として迎えられたが、関東管領上杉氏との折り合いが悪く、
1451(宝徳3)年12月上杉憲忠を急殺。幕府から罪を問われて攻められ、鎌倉を逃れた。
成氏は、そのため自分を支持する北関東の伝統的豪族層を背後にし、
かつ天然の要害、利根川・渡良瀬川を外堀とする古河を本拠地とした。
これが古河公方のおこりである。成氏は、幕府・上杉氏と数十年に及ぶ享徳の大乱を続けた。
文明年代末期になって和睦が成立し、成氏の名誉は回復されたが、鎌倉に帰座することはできなかった。
その後、歴代公方政氏・高基・晴氏・義氏らは古河を本拠地として引き継いだ。成氏後の公方、
とくにその子政氏の時代になると、高基との抗争、義明の小弓御所としての独立化などがみられ、
その勢力は弱体化して行った。晴氏の時には、当時の東国における新興大名であった後北条氏と婚姻関係を結ぶこととなり、
その影響力を受けることとなった。その子義氏は、北条氏綱の娘を母とする公方であった。
そのため、後北条氏によって擁立された面もあったが、
1569(永禄12)年、越後上杉氏と後北条氏の和睦が成立(越相同盟)で正式の公方として諸勢力から承認された。
歴代公方は、鎌倉府以来の足利氏として伝統・形式重視に流れる面もあったが、
東国における将軍として伝統的秩序の頂点にあって、決してその歴史的役割は小さくなかった。
最後の公方義氏が1582(天正10)年、死去。跡継ぎがおらず公方家は断絶した。
しかし、1590(天正18)年、後北条氏を滅ぼし関八州を征服した豊臣秀吉は、この名門の断絶を惜み、
小弓御所義明の孫国朝と義氏の遺子氏姫を縁組みさせたうえで、下野国塩谷郡喜連川(現さくら市喜連川)に土地を与えた。
それが喜連川公方のおこりである。



