黒羽藩 (クロバネハン)
詳細
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那須郡黒羽町(現大田原市)を中心に1万8千石を領知した外様大名大関家。
那須七党の一つ。1590(天正18)年那須氏改易後、その配下にあった大関家が
秀吉によって1万3000石の所領が安堵され近世大名化した。
関が原戦いで7000石が加増され、一時は2万石となったが、
その後の減封で1万8千石となり、1664(寛文4)年当時の藩領は、那須郡64か村
1万4339石、芳賀郡6か村3661石であった。寛文・延宝期の領内総検地をきっかけ
に地方知行制を廃し、藩体制を確立したが、享保期以降は藩財政の窮乏が続き、
特に宝暦・明和期には領内の農村の衰微が著しくなり、藩政改革の必要は必至
となった。明和~寛政期に農政家鈴木武助が農村のたてなおしのため、各種の
救恤施策を実践、文化年間には藩主大関増業の改革が推進されたが、いずれも
藩財政の再建に成功するには至らなかった。嘉永・安政期には財政再建のため
地押改、材木・煙草の専売制が実践されようとして領内に百姓一揆を起こし、
その処理をめぐって重臣層の分裂を招いた。幕末の混乱のなかで家督を継いだ
大関増裕は、幕府の陸海軍奉行、若年寄を歴任するかたわら、国許の藩政刷新に
つとめ、富国強兵の目漂をかかげ、改革を断行したが、1867(慶応3)年12月不慮
の最期を遂げた。増裕の死後、藩論は新政府恭順を早期に決定し、戊辰戦争に
積極的に参加、1869(明治2)年には賞典禄1万5千石を賜与された。



