烏山城 (カラスヤマジョウ)
詳細
住所 | 栃木県那須烏山市屋敷町字城山 |
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烏山町屋敷町字城山にある山城跡で、伏手城とも臥牛城ともいう。
1418(応永25)年、下那須家初代・那須資重(沢村五郎資重)が築いた。
1590(天正18)年、那須資晴は小田原征伐において豊臣秀吉の陣に加わらなかった。そのため資晴は秀吉によって所領8万石を没収され、烏山城を明け渡して佐良土城に蟄居した。
その後烏山城に織田信長の次男・織田信雄が2万石で入ったが、信雄在城はわずか2か月で終わった。
次に元北条氏の家臣で武蔵国(埼玉県)忍城主だった成田氏長が、豊臣秀吉に仕え2万7000石で烏山城に入った。
しかし成田氏は嗣子に恵まれず断絶し、1623(元和9)年松下重綱が2万石で城主となった。
その後1627年(寛永4)3月奥州二本松に移ったため、堀親良が真岡から2万8300石で烏山城主となった。
堀氏が信濃国(長野県)飯田に移った後は、1672(寛文12)年板倉重矩が5万石で城主となった。
1681年(天和元)板倉氏が武蔵国(埼玉県)岩槻に移ると、旧に復して那須資祇が2万石で烏山城主になった。
しかし子の資徳の時、家督争いのため改易となり、かわって永井尚敬が3万石で城主となった。
永井氏が1702(元禄15)年播磨国(兵庫具)赤穂に移った後、1709年(宝永6)稲垣重富が上総国(千葉県)の大多喜成から移り烏山城主となった。
1725(享保10)年稲垣氏が志摩国(三重県)鳥羽に移った後、大久保常春が3万石で城主となり、めまぐるしく変動した城主交替に終止符をうち、以後代々烏山城は大久保氏の居城として明治維新まで続いた。
町の北西にある八高山一帯が烏山城跡で、江戸時代には山麓に三の丸が築かれた。
本丸付近はうっそうとした杉の大木が茂り、土塁や空堀、崩れた石垣・井戸跡などが往時の烏山城を偲ばせている。
中正に築城され、近世を経て明治維新まで存続した数少ない城の一つである。