出流山挙兵 (イズルサンキョヘイ)
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1867(慶応3)年10月4日薩摩藩と長州藩に倒幕の密勅が下ったが、つとに将軍徳川慶喜は大政を奉還、翌日これが勅許された。
武力倒幕を主張していた西郷隆盛は幕府を挑発して開戦に導こうと多数の浪人を江戸三田の薩摩藩邸に集め、江戸市内を荒らさせた。
さらに西郷は別働隊を三組つくり、甲州路・相州路・下野路へと派遣して挙兵させた。出流山挙兵はこの下野路挙兵の一つである。
隊長の竹内啓は薩摩藩士として乗り込んできたが、実は武州入間郡竹内村の医師小川節斎であり、平田篤胤の門人だった。
彼らは11月9日出流山千千手院満願寺(現栃木市)で倒幕の論告を発し、義兵と軍用金を募った。
安蘇郡田沼宿で儒学を講じていた赤尾子敬(甲州の人)も倒幕の檄に感激してその門弟を率いて参加し、学問好きの農家の子弟が多く加わった。
一方、八州取締出役渋谷鷲郎は足利・館林・壬生への三藩へも出動を命じたほか、農民兵を組織、鉄砲隊750名を先頭に1000余名の討伐軍が、葛生口・鍋山口・永野口の三方面から出流山を攻める手はずを整えた。
義軍は出流山は防ぎ戦うのに不利だというので、主力は唐沢山に、別軍は岩舟山と太平山によって戦い、天下の義兵を募ろうということになったため出流を去ったが、結局思うままに動かせず、途中逃亡者も多く最後まで残ったものは新里(現岩舟町)で包囲されて殺されたり捕らえられて滅んだ。
捕らえられたものはいずれも佐野河原で打ち首となった。