佐野氏 (サノシ)

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住所 栃木県佐野市

鎌倉初期から江戸初期まで続いた地頭の系譜をひく在地領主。藤姓足利氏庶流で、足利家綱の七男有綱の子太郎基綱が伯父佐野庄司成俊の養子となり、佐野氏を名乗ったことから始まる。
佐野基綱は1183(寿永2)年の志田義広の乱(野木宮合戦)に小山氏らとともに源頼朝方として参陣し、御家人に加えられた。
御家人としての佐野氏の動向は『吾妻鏡』の記事の中に散見する。1247(宝治元)年の宝治合戦で佐野氏は三浦泰村に味方し没落、佐野氏の勢力は一時衰えた。
鎌倉後期から南北朝・室町初期にかけての佐野氏の動静は不詳であるが、『武沢文書』等の残存文書から惣領制の動揺、貨幣経済の進展がうかがえる。
1463(寛正4)年頃から佐野盛綱が古河公方足利成氏の家臣として活躍し、佐野氏の勢力を拡大していった。
1509(永正6)年連歌師宗長は佐野秀綱(盛綱の子)父子の所に立寄っている。後北条氏と上杉氏の勢力が侵攻してくる戦国期において、佐野氏は自家の勢力確保に努めなければならなかった。佐野昌綱は後北条氏と結び、越後上杉氏と抗争した。
1574(天正2)年昌綱の後を継いだ宗綱は越後上杉氏と戦う一方、隣接の足利長尾氏とも争わねばならなかった。
1585(天正13)年正月、長尾顕長との合戦で宗綱は須花坂で討死してしまった。このため佐野は後北条氏に制圧され、北条氏康の六男氏忠が養子という形で佐野家を継ぎ、佐野氏忠と名乗りその傘下となった。
その際、昌綱(一説には宗綱)の弟であった天徳寺了伯は、北条氏忠の佐野氏の継承に反して佐竹氏より養子を迎えようと対立するも敗れ、佐野家を出奔した。
北条氏の滅亡後、了伯は秀吉に従い小田原征伐に功があったため、1590(天正18)年佐野氏忠に代り、佐野3900石の当主となり房綱と改名した。
房綱は1592年(天正20)富田知信の子信種(後に信吉と改名)を養子に迎え隠居した。1614年(慶長19)7月、信吉は徳川政権下で改易となり幕府に所領を没収され、信濃に配流されて大名としての佐野氏は断絶した。
その後子孫は旗本として命脈を保つに留まった。

佐野氏の略系図は次の通り。基綱-国綱-実綱-成綱-清綱(実綱の八男)-貞綱-資綱-師綱-重綱-重長-盛綱-秀綱-泰綱-豊綱-昌綱-宗綱-氏忠-房綱-信吉

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