那須資晴 (ナススケハル)

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戦国時代末期、烏山城主として活躍した武将。資胤の子。戦国時代末期の関東は、小田原北条氏や上杉氏らの強大な戦国大名を中心に離合集散を展開し、下野の中小大名も合戦に明け暮れていた。資晴は、このような情勢の中で、父資胤とともに、東の佐竹、北の結城・芦名、南の宇都宮などの諸大名の間にあって絶えずおびやかされながらも、戦乱を生き抜いてきた。那須勢は常に少数ではあったが、敵を撃破して古代以来の勇名をけがすことなく保ってきた。特に、資晴の時代には、積極的に佐竹領や宇都宮領に進攻して所領の拡大を図ってきた。しかし1590(天保18)年豊臣秀吉の小田原攻略に際して秀吉の度重なる呼びかけにも応ぜず、北条氏側の態度を取ったため、遅参を理由に所領8万石は没収となり、烏山を改易となった。資晴は旧領福原に退いたが、その悲運を心配した家臣達の取りなしで、その子資景は次第に加増された。なお、資晴の家臣大田原・大関らは主君に先立って参謁したため所領は安堵され那須氏の存続は許された。
1610(慶長15)年に死去。
資晴個人は武勇に優れ、局地的な戦いでは勝利を治める事が多く、一人の武将としては優秀であったが、大局的な政治感覚には劣り、時勢を見誤り小田原の役での遅参、改易となってしまった事で酷評される事も多い。 

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