鈴木源之丞 (スズキゲンノジョウ)
詳細
住所 | 栃木県宇都宮市 |
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1688~1753(元禄元~宝暦3)年宇都宮藩領籾摺百姓一揆の主謀者と言われた義人。
河内郡御田長島村(現宇都宮市)庄屋。1753(宝暦3)年9月11日、明六ッ頃(午前6時)、宇都宮領200か村の百姓4万5000余人が、八幡山に集合し宇都宮城下へ怒濤のようになだれ込み、富豪10数か所を急襲し、手当り次第に打ち壊しをはじめた。この暴動に驚いた藩庁では、大目付松野源太夫を先頭に騎馬侍、足軽など300余人を出動させ鎮圧に当ったが、翌12日も各所で乱暴がつづき13日朝に漸く平定した。同日夕刻、源之丞ほか18人が捕えられ、10月17日源之丞(65歳)外3人が城下引廻しの上斬罪となった。1757(宝暦7)年と1764(明和元)年宇都宮城下は大洪水に襲われ、これを「源之丞洪水」と呼び、百姓達の恩人である源之丞の怨念が洪水を呼んだものと噂さされた。百姓達は源之丞の霊を慰めるため、御田長島村鎮守森の境内に石祠を作り「喜国源之丞大明神」として祭祠し、近くの道路添いの高尾神社(宇都宮市御田長島町)東の竹の中に六角供養石塔を建立した。騒ぎの原因は、松平主殿頭の家臣郡奉行松野源吾、勘定奉行松根源太左衛門が藩財政の立て直しをねらい「この秋から籾一升は米六合摺の割合で上納すべし」と命じたことから百姓達がこれに反対し「今迄通り五合摺りで納めたい」と願い出たが許可にならなかったので暴挙となったのである。源之丞等の処刑と同時に、六合摺は五合摺納めとなり元に復した。