鈴木石橋 (スズキセッキョウ)
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詳細
住所 |
〒 322-0055 栃木県鹿沼市石橋町 |
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1754~1815(宝暦4~文化12)年儒学者。鹿沼宿(現鹿沼市)石橋町に三郎兵衛の二男として生まれる。名は之徳、字は沢民、通称四郎兵衛、別号に閑翁。家は代々農間に大坂屋の屋号で雑貨を商い財をなした。1777(安永6)年、出府し昌平黌に学ぶこと数年、学才を認められて仰高門講授に挙げられた。
1871(天明元)年の頃帰郷した石橋は私塾麗沢之舎を開き子弟の教育に努めた。蒲生君平は開塾早々14歳で石橋に師事しその思想的影響を強くうけた。
また佐野越名河岸の素封家須藤仲比も師弟の礼をとっている。天明のききんに際、窮民の救済や、地元の富人に奨めて救貧の募金を行い、さらに備荒貯蓄の法を立てるなどの社会事業に奔走した。また当時この地方にも広く行われた堕胎間引の悪習を憂え、『惻隠余情』を著わして庶民を啓発するとともに、個別説得により間引を未然に防止することも多かった。このように石橋が書斎の人に終始するを好まず実践活動に従事した。宇都宮藩主戸田忠翰は城中に月三度の講義を行うことを求め、五人扶持を給した。老年で足疾を患っていた石橋は閑翁と号して『周易象義』の完成に没頭し、脱稿の後2年、62歳で没した。
1924(大正13)年、公益事業に貢献の功を以って正五位を追贈された。遺稿に下毛国誌・石橋文集・左伝凡例考・惻隠余情・三餘漫筆・深衣図説・詩稿などある。