常盤潭北 (トキワタンボク)
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詳細
住所 |
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1677~1744(延宝5~延享元)年俳人・心学者。烏山赤坂町(現中央1丁目、生家跡は、住友生命烏山支部社屋)生まれ。
姓は渡辺、名は貞尚、字は堯荘、潭北または百華荘と号した。若くして上京し、医学を学ぶ傍ら、
同郷の俳人早野巴人の紹介で、巴人の師、榎本其角(1616~1707)の門に入り俳諧を学ぶ。句集『汐こし』(1716年)は、
友人祇空と奥羽地方を行脚した折のものであり、翌年には、紀行『烏糸襴』を刊行している。句集は他に、
『後の月日』『反古さらへ』『としのみどり』などがある。俳論には、『俳諧婦登古呂子』(1724年)があるが、
評論面でも活躍した。1732年(享保17)に刊行された俳諧系譜書『綾錦』には、江戸一流の宗匠のひとりといえる。
晩年は、俳論・俳話のほかに、農民に道を説き、社会教化のために地方を歴遊することが多かった。
それらの教訓的講話をまとめたのが『民家分量記』(5巻・百姓分量記ともいう・1726年)、
『野総茗話』(4巻・1733年)、『民家童蒙解』(3巻・1734年)である。いずれも農民の日常における道徳・修身・斉家など、
処世のあり方を説いたものである。13回忌(1760年)に『さざれ貝』、33回忌(1775年)に『野の菊』など、
それぞれ追善句集が刊行されている。墓は那須烏山市烏山金井の善念寺である。